昭和43年07月27日 朝の御理解



 御理解 第69節
 「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、我心をまつれ。日は年月の始めじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」

 [叩かれて強うなれ、笑われて賢うなれ。]これは私が昔頂きました御教えです。「叩かれて強うなれ、笑われて賢うなれ」叩かれて強うなれと言う事は大体分かる。鍛われ叩かれなければやはり強うなりません。やはり鍛たわれなければ力は出ません。どんなに例えば身体が大きかっても、それを鍛わなかったら力にはなりません。お相撲さん達がああゆう大きな身体をして、そのうえにあれだけ猛烈な鍛われかたをするから、いよいよ力がつくのですから、叩かれて強うなれと言う事は分かりますけれども。
 私は今まで分かっておったように思うけれども、笑われて賢うなれと言う事が分からなかった。何故っていつもここでは馬鹿と阿呆になれ、馬鹿と阿呆になればかり頂いているのですからね。それでその笑われて賢うなれと言う事それを今日は御理解第六十九節から頂いてみたいと思うんです。読んでみます。御理解第九十六節「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、我心をまつれ。日は年月の始めじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」
 信心はむつかしいものじゃない容易いもの、其の日其の日のおかげを受けていきながら、立ちゆかせて頂きながら、容易う信心をさせて頂きたいと思うけれども、仲々容易とは思われない。その容易うおかげを頂いてゆくと言う事が、今日私がいう笑われて賢うなれとゆうそこのところが頂け、そこのところが自分のものになって参りませんと、やはり信心はむつかしいものだと言う事になるようです。其の日其の日が立ち行こうがと仰るけれども、実は其の日其の日が立ちゆかんのである。
 けれどもその笑われて賢うなれとおっしゃるその事が出来る様になると、その事が分からせて頂くと、その日その日が立ちゆくのである。そして楽な容易い日々が送れるのである。ですからどうでもここのところを、ひとつ自分のものにする、ところがここにも書いてございますように、三年五年の信心ではまだ迷い易い、とおおせられるのでございますから、そうゆう笑われれても賢うなって、いけれるような信心が体得させて頂いて、その上もかつ三年五年では、まぁだ迷い易いのですから。
 その事が自分の事にならせてもらうように、信心がなる程みやすいものと言う所迄、信心を頂いていきたいと思うのです。ここに信心は容易ものじゃが、皆氏子からむつかしゅうすると言う事は、ここで信心というのは、私は信ずる心とか、生まれてくるおかげとかそういう例えば、おかげは容易ものじゃがという所にならなければいけないですね、おかげは容易う受けられるのじゃが、氏子からむつかしゅうしてようおかげを頂かんと、そういう風に頂いたらどうでしょうか。
 人に馬鹿にされるとか軽蔑されるとか、愉快な事ではこざいませんよねぇ。それは本当に馬鹿にされたり、軽う見られたりすればする程ですねぇ、自分とゆうものを見れば見る程、自分でも自己嫌悪になる位に、本当に自分はつまらんなぁと思うのです。腹が立つだんじゃない、皆さんどうでしょうか。人を馬鹿にして親を馬鹿にして、その時にはかっとする位にあるけれども、よくよく自分というものを見極めていくと、いうなら親の資格がないんだもの。
 さて私最近の信心とでも申しましょうかね、以前はたとえ拝ましてもらうことでも自分の実感すること、痛いなら痛いかゆいならかゆいことを、実感することを人にもの言うように神様に願えと、段々信心の成長が出来て来る様になって、最近では自分の事もだけど人の事を願えと、村の事を願え、町の事を願え、いや日本国中の事ではない、世界の事を願え、世界の難儀に取組め、世界総氏子の身上安全、世界真の平和を願えと、例えばそれは実感としてはなくても。
 やはり願わして頂くうちに、段段少しずつでも自分のものになってくる、自分の事だけじゃいかん、自分の周囲の事を、本気で願える様になっていかなければいかん、ですからいうならとてつもない、大きな世界真の平和とか、世界総氏子の助かりとか、願わせて頂いておるけれども、とてもとても私位の者が願う資格がないと思う、大体はとてもそういう大それた事を、願う資格もない私が願っておる。 
 例えていうなら、若い人に意見をする様な場合でも、私があんたに意見をする資格はないけれどもいうなら私も若い時には遊びもした、道楽もした。それを今あんたが遊んでおるから道楽をしておるからと行って、私としてはいう資格はないけれども、そう言う事では、私自身が立ち行かなかった。だから年長者として先輩として、あんたにいう資格はないけれども、さぁ今目をさませ、さまさなければ難儀するぞと言った様に、資格はないけれどもとこういうですね。
 本当に皆さん資格がない事を自分で痛感しますよ。隣近所の事なんかおこがましゅうて願われない、願う資格がない、だからというてそれを願わんという訳にはいかない様に最近では教えられる。願っていけと。人の難儀を資格はないけれども、願わずにはおられんとゆう心を頂く。その願わずにはおられないと言う事、時々はそう言う事になりますよね。あかの他人の身も知らない人の事でも、とにかく袖すりあうも多少の縁と言う様に何かのそこに縁が生じて気の毒だなぁとこう思うと。
 神様と願う資格がないんだけども 、願わなければすがらなければおられないような事がございます。最近の様に交通事故が多くなってきますと、やはりはぁあげんスピードだしていきよるが、怪我でもせないいが衝突でもせないいがとやはり、人ごとでなく自分の事のように実感して願える事がある。段々そうゆう願いが大きくなっていく、自分の事を悪くいわれたり笑われたりする。
 してみて自分自身というものが本当に見極めていくと、笑われるはずだと、そしていよいよ自分を追求してまいりますと、本当に自己嫌悪にかかる位にへきえきする様に自分とゆう者がいやになる位に自分を考える。ところが片一方そうゆう例えば笑われてもよい程のもの、悪く云われても仕方がない様なものを内容に持っておる私がです、今日この様におかげを受けておると言う事,これは、私だけの事じゃないですよ、皆さん皆んなの事、それでも神様はこうしておかげを下されてあると言う事。
 それが有難いから、まぁ自己嫌悪にもかからんで済む訳なんです。本当に神様は難儀な氏子、いわば屑の子程可愛いいと仰る難儀な氏子、屑の子をです、かく迄もお守り下され、かく迄もおかげを下されて有難しいわば勿体なしと言う事になってくる。笑われても仕方がない、思えば思う程、自分というものを見極めれば見極める程、自己嫌悪が出る程にこれも信心でもなかったならね。
 いよいよ後、世の中をはかなむ、もう自分のようなつまらんものはないと、はかなんでいくような自分なのにも拘らずです、神様はそれでもおかげを下されてあるという事実を、私共がそこにもここにも見たり感じたりする時にです、本当に神様なる程屑の子程かわいいとおっしゃるが、勿体無いことじゃなぁという、信心を頂くものの、いわば有り難さがそこにある訳なんです。
 やはり自己嫌悪にかかる程の自己というもの、見極める為に馬鹿にされてみる事もいい、笑われることもいい、そういう私なのにかく迄のおはからい、かく迄のおかげの中にお許しを頂いておると言う事、それがいよいよ勿体のうなってくる訳なんです。昨日私これはおかげを頂きましてね。もう大坪は馬鹿であるとかね、分からんやつじゃあるとかと悪う言われてもなれてきた。そう所じゃないと、自分でも思うんですが、ところが昨日は私の一番痛いところ、これは神様の事を悪口言われる位腹の立つ事はない。
 金光教の信心を悪口言われる位腹の立つ事はない。然もその合楽の信心を悪く言われる程腹の立つ事はない、芸術家が命を賭けて書きあげた絵があるとしましょうか、彫刻なら彫刻があるとしましょうか、それを評論家からですね、チャカンチャカンに叩かれるこれは、よしもっといいものを作ろうとゆう事になってくる、いわゆる叩かれて強うなるのですけれども、唯そうじゃなくて、鼻の先で笑われると言う事、もうこの位たまらない事はなかろうと思うのです。
 自分の命以上のもの、その自分の信心をですね、軽蔑される笑われる。いうならもう足げにされたような思いが致しましてですね、本当に憂つうだった。昨日たまたまちょうどお昼を下がってから、身体を拭いてテレビの所へ参りましたら、コント五五号かなんかってゆうのがあってます、前田武彦さんかなんかの司会で、時々その時間ちょうど下がっておる時ですから見るんですけども、もう私はあれを見て思うんですけど、あんなに馬鹿にしなくてもよかりそうなもの。
 もう世の中の弱点を全部コント五五号が持っておる、しかも何か汚いかっこさせてから町に出すでしょ、町で笑われてこいとか言い方がですね、お芝居とはいいながらもうあげん言わんでもよかろと言う様に、いうなら馬鹿にしておる訳なんですよね。ところが昨日、「おまえ達は馬鹿にされながら、人気が段々上昇しておる」という訳なんです。私はそれを見せて頂きよったら心がスッキリして来るんですよね。
 私も今日は心が憂欝だった。自分の信心を足げにされた様な思いであった。けれどもそのなる程私の場合いつでも、馬鹿にされないから笑われながら確かに私は、人気急上昇です。おかげばいよいよ高度なおかげを頂いていきよる、それは私は有難い事だと思わしてもらうのです。ですからその有難い事なのですけれども、それをやはりじかにやられますとそれが憂欝の元になったり心が暗くなる。
 いわゆる自己嫌悪にかかる様な事がある。けれどもコント五五号を見せて頂いておるうちに私の心が明るくなってきた。これはおかげの元じゃっちと言う事が分って来たそしたら、これはおかげたい、これはおがまにゃんとたい、これは憂欝な思いをする事はいらんとたいと分かった時に、なる程信心は容易いものだとと言う事が分かるでしょうが。信心とかおかげを受けると言う事は、そのように容易いものですけれども、自分の心がそれをむつかしゅうしとる訳なんです。
 俺を馬鹿にして親を親とも思わんで、自分の命よりも大切な神様のことを悪口言われた、俺の事を言うのは良いけれども、神様の事まで悪ういうて、と言うて腹を立てる間は名張信心は難しい、けれども%2笑われながら人気上昇中、なる程そういう心になると、その日その日が立ちゆこうがというのがよう分かります。なる程信心というのが容易いものだとゆう事が分かります。叩かれてくじけちゃならない、叩かれれば叩かれる程強うなる、これはなる程分かる、元気な心さえあれば強うなれる。
 けれども笑われて賢うなれというのは、信心でいう。それはそれが引っ掛らん様になると言う事、それが腹が立たん様になると言う事、その事によって自分が自己嫌悪にかかってしまわないと言う事。いやむしろその中から勿体ないものが生まれてくると言う事。神様が見ておいであると言う事。お取次を頂いて、お取次の働きの中に、いうなら親先生の祈りの中に、こうあっておるんだと言う事をです。心に頂かしてもらうと言う事。そこが賢うならにゃ分からん。
 それを煎じ詰めてみると言う事が、偉大な馬鹿と阿呆になる事。それを今日分からして頂いた様な気がする。そこから容易う信心するがよいぞと仰る容易う信心が出来てくる。この手をひとつ覚えときゃいいのだ。ここからのおかげが三年過ち、五年過ち、十年過っていくうちに、なる程我と我心が拝めれる様になるだろう。昨日鳥栖の上野さんが、いろいろおかげを頂いた事をお届けされよった。今娘さんの結婚問題で非常に悩んでおる。初めの間はそうでもなかった。
 大体自分方養子するはずじゃった。ところが御神意も頂き、本人達ももろうてもらうようになったから約束した、それがその先からいろいろな条件が出てくるようになりますからね、結婚となってから、それがどうも自分の胸にこない、どうも馬鹿にされとるごたる、その事のもやもやを3、4日前にお願いにみえた。信心のない主人ですらそれを黙って受けとるのに、信心のあるあなたがそれを受けられんと言う事があるものか、それこそ馬鹿とあほうでなりにゆきなさい。
 娘が幸せになればいいじゃないか、それで。娘の事を思えば思う程腹の立つのだ、これだけお母さんが思いようとにという訳なんです。馬鹿とあほうになっておけばいいけれどそれがなられんとゆう訳なんです。ところがです帰るバスに乗ってね、バスの中で眠ったんです。『そしたら自分の膝の上に大きなかぼちゃを抱いとった、それが偉大なかぼちゃである。それを膝からすべり落ちようとしたから。
 アラッと大きな声を出してから自分の膝にあげた途端に、お夢じゃった横に座っておる人に聞こえとろというぐらいに大きな声を出しとる、夢の中で途端に自分の心の中に今御理解頂いてきた馬鹿になれ、馬鹿になれ馬鹿になっただけじゃいかんばい、偉大なる馬鹿にならにゃいかんばいといわれちその事をですね、かぼちゃとは馬鹿の代名詞のように言われる、本当に神様がこんな手をつこうてまで、馬鹿になれ馬鹿になれというて下さっておる。お夢の中で頂いて思わず大きな声を出して。
 信心を取り落とそうとしておる、馬鹿とあほうを取り落とそうとしておる、その時ハッと受け止めた時にですね、もう瞬間有難うなってきた、神様が見てござったと言う事である。もう偉大な馬鹿になろう、偉大な馬鹿になろうとしかも瞬間心がなった。それからこっちの気持ちのスッキリした事、それからこっちの話の進むこと、只驚くばかりだというてお礼にみえた。
 そういうお取次をさせて頂きながらも私自身が、昨日しばらくの時間ではあるけれどもです、心に引っ掛った、なんとわなしに心に引っ掛った、胸につかえておった様に感じておったけれども、コント五五号を見せて頂いておる中に心が開けてきた。氏子から難しゅうすると仰る、私共そんな訳にはいかん、腹立てん訳にはいかんこれは、もう氏子から難しゅうしとる訳なんです。
 しかし是では信心が難しいものになってき、それではおかげが大変に睦かいしいものに、なってくるのでございます。自分の心の中にいよいよ引っ掛りのないというか、いわゆるこの様な私自己嫌悪にでも掛りたい程の自分ではあるけれども、神様がこの様にして迄、お守り下さってある。この様に迄して、お働き下さってあるんだと言う事をです。分からして頂いた途端にそこから、信心はみやすいものになってきた。おかげもそれに続いて、容易うになってきた。
 そういう信心をあらゆる事柄の上に、応用してゆくというか、あらゆる場合に本気でこの手ひとつを自分のものにしていきや、なる程信心は容易いものである。信心はいよいよ容易う信心せよと仰る信心が出来てくる。そして笑われる様な事があったり、叩かれるような事があるたんびに、又これで強うなれるぞと分からしてもらい、これで又人気が上昇するぞと言う事に楽しみをもって、その事が拝めれる様になるところ迄、信心をすすめていきたいと思いますね。
   どうぞ。